芹摘姫のお話し①


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大阪府太子町の“太子”は、聖徳太子の“太子”。聖徳太子の御廟(お墓)があることから町名になっています。今回は、その御廟に太子と共に埋葬されていると伝わる太子の妃、膳部郎女を紹介します。

太子のお墓は、叡福寺境内の奥にあります。

叡福寺南大門から遮るものなく、太子御廟のニ天門が見えます。

ニ天門の脇に、このような解説板があります。
その最後に、この御廟には母・穴穂部間人皇后と、妃・膳部郎女も埋葬され「三骨一廟」と呼ばれていることと、廟窟内の様子が描かれています。
左に、太子の遺書とされる廟窟偈が立てられているとされています。

御廟の入口です。

入口の上に、阿弥陀三尊の円額があります。

御廟の右、浄土堂の裏に、廟窟偈を写した碑が建っています。

何となく読めますが、下部は剥がれて分かりませんね。

廟窟偈にはこう書かれてあったといいます。
この中に、我が身は救世観音、妃は大勢至、母は阿弥陀尊であるとし、三骨一廟は阿弥陀三尊を表していると、おっしゃっているとか。
それで、御廟の入口の上に阿弥陀三尊の円額が掛けられているのですね。
(写真は太子街人の会編『太子町観光ガイドブック』より)

叡福寺の東側に、和(なごみ)の広場があり、御廟内の模型が展示されています。

廟窟内はこんな感じだったとか。一番奥が母で、右が太子で、左が妃ということでしょうか。

広場に、こんな一角もあります。

これは、叡福寺が所蔵する聖徳太子の一生を描いた絵伝です。この絵伝の第ニ幅に、太子と妃・膳部郎女との出会い、薨去、埋葬の場面が描かれています。

これが太子と妃の出会いの場面です。
供を連れ馬上の太子が、離れたところで座る娘と何か話されている感じですねえ。娘が芹を摘んでいたところを太子が声を掛けたという場面です。その娘が、太子の最愛の妃になったとか。
そして、膳部郎女を後の人々は芹摘姫と呼んだそうです。(以下三枚は、太子町立竹内街道歴史資料館刊『太子町に息づく聖徳太子』から引用)

膳部郎女が亡くなった翌日に太子も亡くなります。場面右上に二人揃って眠っているのが描かれ、まわりで皆が悲しみ泣いています。

二人の棺は斑鳩から磯長に運ばれ、用意していた御廟に葬られる場面です。左下に太子の愛馬、黒駒も描かれています。

さて、太子には四人の妃がいたとされていますが、御廟に一緒に葬られたのは膳部郎女だけです。それほど愛されていたということでしょうか。そして、絵伝には太子と膳部郎女の出会いの場面が描かれていますが、実は、この出会いに関して、芹摘姫説話なる物語があるそうです。

この叡福寺の絵伝には、そのお話の一場面が描かれているだけですが、他の絵伝には、太子との出会いを複数の場面で描かれているものもあり、また、その物語の書もあるようです。次回は、その芹摘姫説話について紹介したいと思います。

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