所属する太子町街人(ガイド)の会で、今年度から絵解きを活動に取り入れて頂けることになり、絵解きプロジェクトが始まりました。その第一作となったのが、この「三尼公御絵伝」です。
ここに有りますは、西方院の縁起になっています、聖徳太子の乳母を務め、日本僧尼の最初となられた三人公のお話です。江戸時代に出版された「聖徳太子伝」の挿絵と、西方院さんの縁起を交えて、絵解き絵とお話を作ってみました。どうぞ、お楽しみ下さい。
まずは、聖徳太子ご誕生のお話しから。
今から1450年ほど昔、欽明天皇三十二年の正月、後に用明天皇となられる橘豊日尊と、その妃である穴穂部間人皇女が寝ていられると、皇女様の夢の中に金色の僧が現れ、「私は救世菩薩です。この国に生まれ変わる為、しばらくあなたのお腹に宿らせて下さい」と言います。皇女様は、「どうしてあなたのような尊い方を宿らせましょうか」と辞退されましたが、救世菩薩の再度の頼みに、「それではお宿り下さい」と答えると、菩薩様は皇女様の口から飛び入り、皇女様はご懐妊となられました。
さて、一年後の敏達天皇元年の正月、皇女様と女官達達と庭を散歩していると、厩のところで俄に産気づき、難なく出産されたといいます。この生まれた子が後の聖徳太子で、厩の前で生まれたことから厩戸皇子と名付けられました。
この知らせを聞いた敏達天皇は、籠に乗って駆けつけると、産湯を終えた太子を白き綾を広げて取り上げ、早速乳母を定めるべしと、容顔美麗の娘を全国から百人集め、その中より選ばれたのが、蘇我馬子の娘の月益姫、小野妹子の娘の日益姫、物部守屋の娘の玉照姫の三人だと言います。
三人は、太子を大切に守り育て、ねんねんころろの子守唄は、このときから始まったと、「河内名所図会」に書かれています。
さて次は、太子ニ歳の時のお話しです。
この日は、玉照姫が太子の添寝をしていました。太子はふと目を開くと、「わたしは明日の夜明けに、心に浮かんだことを唱えるので、止めないようにして下さい」と、玉照姫にいうと、また寝入りました。
果たして翌朝、玉照姫より早く起きた太子は、上の衣を脱ぎ、赤い袴だけのお姿で、東の方に向かい、ご誕生からずっと握りしめていた右手を開いて手を合わせ、「南無仏、南無仏、南無仏」と、三度唱えたのでした。
すると、ずっと握っていた手のひらから仏舎利がこぼれ落ち、あたりを輝かせたと言います。
その時のお姿を表したのが太子ニ歳像です。全国のお寺で祀られ、西方院でも、本堂の右手に祀られています。
こちらは太子三歳の時のお話です。
三月三日、太子は乳母に抱かれ、父橘豊日皇子、母穴穂部間人皇女と桃花の宴を楽しんでいました。その折、父は「桃と松はどちらも祝物だが、おまえはどちらを好む」と尋ねました。すると太子は、「桃の花は一時の栄ですが、松の葉はいつも愛でることができます。」と、答えると、皇子はとても喜んで、太子を抱き上げたというお話しです。
さて、こちらは五歳の時のお話しです。
敏達天皇は、後の推古天皇となる豊御食炊屋姫を皇后にされました。それを群臣が祝う日、太子は乳母に抱えられ皇后の前にいました。そして、太子は乳母に、「大臣たちが皇后を拝む前に、私を膝からおろして下さい」というのでした。
そして、馬子大臣達がやってきた時、太子は乳母の膝から降ろされると、自分の衣や袴を調え直し、皇后の大臣達の前に立ち、皇后に向かって再拝するのでした。その仕草が、作法通りで、堂々としたものだったので皆は驚きました。
後で、乳母たちは、「わが皇子よ、どうして先ほどは大臣達の前に立ち、皇后を拝したのですか」と尋ねると、太子は、「あの方は、やがて私の天皇になる人だからです。」と答えたといいます。
果たして、皇后は初めての女性天皇となり、太子は摂政となり支えたのでした。太子は、未来も予言できたというお話しです。
さて、「聖徳太子伝」に載る、太子と乳母のエピソードは以上で、三人の乳母のその後は伝えられていません。しかし、ここ西方院の寺伝では、太子が成人されてからは侍女として仕えたそうで、太子は、その勤労を労い、自らが彫り、贈ったのが、本堂に祀られる阿弥陀如来像だと伝えられています。
月日は経ち、推古天皇30年2月21日、太子の妃の膳姫が、そして翌日には太子がお亡くなりになりました。人々は、「父と母を失ったようなものだ」「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。」と、悲しみました。
膳姫と太子のご遺体は、斑鳩から、かねて墓所として用意されていた、磯長の五字ケ峰へ運ばれ、葬られました。
この御廟を守護するために建立されていったのが叡福寺です。
そして太子の侍女を務めていた三人は、太子を弔い出家し、月益姫は善信尼に、日益姫は禅蔵尼、玉照姫は恵善尼とそれぞれ名を改め、日本の僧尼の始めとなられたといいます。
そして三人の尼が、御廟と谷を隔てて一宇を結んだのが、西方院の前身となる法楽寺でございます。
太子町の人々は、その三人を敬い、「三尼公」と呼んで、語り伝えてきたのでした。その御姿は、三尼公尊像として、本堂右手に祀られています。
真ん中におられるのが善信尼様、向かって右が禅蔵尼様、左が恵善尼様になります。長い月日によりすすけていますが、頬だけが白いのは、多くの人々がご利益にあやかろうと撫でられてきた証だそうです。
また、西方院南側には、三人のお墓と伝わる大きな多層塔が三基並んで建っています。その大きさ、風格からも、三人公が、この太子町でいかに偲ばれてきたかが伝わる事でしょう。
以上、太子町に伝わる、三尼公の御物語でございました。
さて、ここからは太子町に伝わるお話しとは違う、『日本書紀』に載るお話しです。
敏達天皇十三年。蘇我馬子は天皇から弥勒菩薩の石像を貰い受けました。
そして、司馬達等の娘の嶋、漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘の豊女(とよめ)、錦織壺(にしこりのつぶ)の娘の石女(いしめ)を出家させ、それぞれ、善信尼、善蔵尼、恵善尼といったとあります。
馬子は、三人をあがめ尊び、「我が国の仏法はここより始まった」と書かれています。
しかし、翌年、疫病がおこり、多くの人が亡くなりました。物部の守屋は天皇に、「疫病が起こるのは、馬子が仏教を広めようとしているからです」と奏上し、馬子が建てた塔を焼き払い、仏像を海へ投げ捨て、三人の尼は法衣を剥ぎ取られ、海石榴市で鞭打たれ、石牢に閉じ込められたのでした。
それでも、くじけなかった三人の尼は、釈放後、正式な僧侶となるために百済への留学を何度も願い出、ついに留学を果たしました。この絵は、韓国の皐蘭(こうらん)寺の壁に描かれている物で、日本から海を渡って仏法を学びに来た三人を描いています。
そして、授戒を受けた三人は、日本に帰国し、僧侶の育成に努めたとあります。日本の仏教の広がりには、聖徳太子の他にも、幾多の困難も乗り越えた三人の尼の活躍があったことも忘れてはいけませんね。
太子町に伝わるお話と、『日本書紀』に載るお話、少し違いはありますが、どちらも大切にして頂けたら幸いです。
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