二上山の麓の相撲故事


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

毎年7月7日が近づくと、思い馳せるのは當麻蹶速と野見宿禰の相撲故事。 日本書紀の垂仁天皇七年七月七日の条に、次のような記事がります。

七年秋七月七日、おそばの者が申し上げ、「當麻邑に勇敢な人がいます。当麻蹶速といい、その人は力が強くて、角を折ったり曲がった鈎をのばしたりします。人々に語って、『四方に求めても、自分の力に並ぶ者はないだろう。何とかして強力の者に会い、生死を問わず力比べをしたい』といっています」といった。

天皇はこれをお聞きになり、群卿臣たちに詔して、當麻蹶速は天下の力持ちだという。これに勝う者はあるだろうか」といわれた。ひとりの臣が進み出て、「出雲国に野見宿禰という勇士があると聞いています。この人を蹶速に取組ませてみたらと思います」という。その日に倭直の祖、長尾市を遣わして、野見宿禰を呼ばれた。野見宿禰は出雲からやってきた。当麻蹶速と野見宿禰に角力させた。二人は向かい合って立った。互いに足を挙げて蹴り合った。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨をふみくだいた。また彼の腰を踏みくじいて殺した。そこで当麻蹶速の土地を没収して、すべて野見宿禰に与えられた。これがその邑に腰折田のあるわけである。野見宿禰はそのまま留まってお仕えした。

『日本書紀』宇治谷孟 講談社学術文庫

この力比べの記事は、後に相撲起源となり、古代では、毎年7月7日に、全国から相撲人を集め、相撲節を開いていたそうです。

以前、車を走らせていたら、この腰折田の看板を見かけたので、今日は訪れてみました。

腰折田に着きました。

後ろが田んぼなのがいいですね。

なになに、ここの伝承では、当麻蹴速と野見宿禰の試合はここで取られたとな。付近には両人がまわしを洗った「まわし池」があるとか。

見事にまとめられた解説です。

二上山と土俵と力士像。

さて、看板の解説にもあるように、この野見宿禰は、後に、殉死の代りに埴輪を埋葬することを提言し、その功で、土師氏の祖となったと、再び『日本書紀』に登場します。 土師氏は、古墳造りで大きな力を持った氏族ですね。 ですから、先の力比べの話は、土師氏が古墳造営に欠かせない、二上山の石の採掘権を得た話であるとの説や、野見宿禰の野見は、石を加工する時のノミから来てるとする説もあるようです。

また、野見宿禰の出身は、今の島根の出雲ではなく、桜井から長谷寺へいく途中に出雲という地名があり、ここの出身だという伝承もあり、野見宿禰の碑なども残っています。

この野見宿禰に始まる土師氏は、とても興味深い歴史が色々あって、おいおいまた紹介したいと思っています。

【この日あるいた記録です】

二上山の麓に相撲故事 / 二上嶽さんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です