叡福寺本の並べ順と第五幅左上の図様に関して


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ふと、2008年の『聖徳太子ゆかりの名宝』展の図録を眺めていて、同図録に収録されている朝賀浩さんの論文「中世聖徳太子絵伝をめぐって」の注釈に目が止まった。

ひとつは、「註七」。そこに「四季絵八幅本を左側から順次配列することは不可能であろうか」「試みに例えば夏幅ニ幅の左右を入れ替えて配列すると、構図に安定感が生じ、事績の配置に空間的整合性が伴うように思われるが如何であろうか」と、あった。

実は、去年、太子街人(ガイド)の会で開催した講座の私の回で、外に出て回る前のガイダンスで、叡福寺本のコピーを机の上に広げて、参加者にちょっと観てもらったのですが、その時、ふと、第三幅と第四幅は、第三幅を左に、第四幅は右に置いた方がしっくりくると思ったので、やっぱりそう思う人はいるんだと分かりました。

もうひとつは、「註ニ」に、「菊竹淳一「聖徳太子絵伝に見る四季絵的要素」(『ミュージアム』ニニ六)」とあったので、本文を見てみたくなった。

というのも、太子町の竹内街道歴史資料館で発刊している各冊子では、叡福寺蔵八幅本の第五幅左上の図様は「太子四三歳」の事、つまり「馬子病、千人出家」の場面と解説されているのですが、私はこの図様は二つからなり、下部は「馬子病、千人出家」の場面だけど、上部は、三尼の出家の場面を描いていると考えています。

で、上記論文を国立国会図書館デジタルコレクションから閲覧してみると、この論文においても、第五幅左上の図様は「馬子病、千人出家」のこととして一括りにしていました。同論文が収録されている『Museum』(226)は1970年の発行なので、少なくとも、この時から、同箇所は「馬子病、千人出家」と一括りにされていたことが分かりました。

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