『日本書紀』に、当麻蹴速とともに相撲起源説話として登場した野見(出雲)宿禰は、書紀にもう一度登場します。今回は、その話の舞台となった、垂仁天皇の母の弟である倭彦命の墓と、皇后の日葉酢媛の陵、そして、土師氏の大和の本貫地であった菅原と秋篠を訪れてきました。
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まずは、橿原神宮前駅から桝山古墳(崇神天皇皇子倭彦命墓)へ行きます。
『日本書紀』の垂仁天皇二十八年には、こう記されています。
二十八年冬十月五日、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。
『日本書紀』 宇治谷孟 講談社学術文庫
十一月二日、倭彦命を身狭(むさ)の桜花鳥坂(つきさか)に葬った。このとき近習の者を集めて、全員を生きたままで、稜のめぐりに埋めたてた。日を経ても死なず、昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べた。天皇はこの泣きうめく声を聞かれて、心を痛められた。群卿に詔して、「生きているときに愛し使われた人々を、亡者に殉死させるのはいたいたしいことだ。古の風であるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は議(はか)って殉死を止めるように」といわれた。
この事があって、後に皇后の日葉酢媛命が亡くなられた折、野見宿禰が殉死の代わりに埴輪を作って立てることを進言するのですね。
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薬師寺、唐招提寺の横を歩いて行きます。
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途中、こんな看板が立っていました。
田道間守(たじまもり)。橘を求め常世国へ遣わされ、帰国したのは九年後で、垂仁天皇はすでに崩御された後だったとか。Wikipediaでは、後に菓子、みかんの始祖となったとか。
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埴輪を焼いていた遺跡で、今も残る菅原という地名から、土師氏の一族が菅原氏に改姓したこと。土師氏は古墳の築造に関わっていたこと。野見宿禰が、垂仁天皇の皇后の日葉酢媛の古墳に初めて埴輪を作って並べた伝承などが紹介されていました。
その埴輪起源伝承が『日本書紀』にどう書かれているか、紹介します。
三十二年秋七月六日、皇后日葉酢媛命がなくなられた。葬るのにはまだ日があった。天皇は群卿に詔して、「殉死がよくないことは前に分った。今度の葬(もがり)はどうしようか」といわれた。野見宿繭が進んでいうのに、「君王の陵墓に、生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」と。使者を出して出雲国の土部(はじべ)百人をよんで、土部たちを使い、埴土(はにつち)で人や馬やいろいろの物の形を造って、天皇に献上していうのに、「これから後、この土物(はに)を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世のきまりとしましょう」と。天皇は大いに喜ばれ、野見宿輔に詔して、「お前の便法はまことにわが意を得たものだ」といわれ、その土物を始めて日葉酢媛命の墓に立てた。よってこの土物を名づけて埴輪といった。あるいは立物(たてもの)ともいった。命を下されて、「今から後、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損ってはならぬ」といわれた。天皇は厚く野見宿禰の功をほめられて、鍛地(陶器を成熟させる地)を賜った。そして土師の職に任ぜられた。それで本姓を改めて土部臣という。これが土部連らが、 天皇の喪葬を司るいわれである。いわゆる野見宿禰は土部連らの先祖である。
『日本書紀』 宇治谷孟 講談社学術文庫
野見宿禰命は、垂仁天皇の后、日葉酢媛命が崩御された時、古来悪習であった殉死を無くし代わりに埴輪を造り埋めるべきと建言、その功績により土師臣の姓を賜った。また、当麻蹴速と力比べをしこれに勝ち、相撲の始祖としてもしられている。
その後土師家は大喪を掌っていたが、天応元年(七八一年)その子孫である土師宿禰古人、土師宿禰道長等百十五名が居住地である菅原の里の地名をとって土師家より「菅原」姓の改姓を願い出、勅許される。
以後、古人、清公、是善と続き承和十二年(八四六年)六月二十五日、菅原道真公の誕生となり、(以下略)
埴輪の建議で大喪を担ってきた土師氏だが、奈良時代も終わりの頃、古人が改姓を願い出、菅原氏となり、天神様こと菅原道真公はそのひ孫にあたるという話ですね。
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本堂には重文の仏像が何体も並んでいますが、伎芸天が特に有名らしく、国内唯一のものだそうです。
しおりにある縁起では詳しくは書かれていませんが、秋篠氏の氏寺としてあったものが、光仁天皇によって勅願寺に変えられたと見る説も紹介されていました。
この秋篠氏もまた、菅原氏同様、土師氏から改姓を願い出た一族だそうで、この地も土師氏の本貫地のひとつだったそうで、東には沢山の陵墓が並んでいます。
さて、今回回った旧跡巡りは以上です。埴輪起源説話=土師氏の始まりの史跡と、数百年後の改姓に因む史跡を同時に紹介しました。
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