建久御巡礼記


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後に、当麻曼荼羅と中将姫物語で有名になった當麻寺ですが、その創建や曼荼羅の由来については、確かな記録は残っていないようです。當麻寺の創建は、遺物から白鳳時代まで遡ると考えられているそうですが、當麻寺と曼荼羅の縁起が語られた一番古い記録は、鎌倉時代初期に書かれた『建久御巡礼記』になるそうです。

『建久御巡礼記』は、皇后位にあった女性(近衛天皇の皇后であった藤原多子と推定されている)が、建久二年(1191)末に南都の寺院を巡礼し、その案内を務めた興福寺の僧実叡が翌年まとめたものだそうです。

ここに、當麻寺の僧から聞いた寺の創建と曼荼羅の縁起が載っていて、現代語訳にしてみました。読み取れなかった所や、誤訳もあるとは思いますが、紹介しておきます。


当麻寺

明かりが燈される頃に、当麻寺に着かれました。この寺(法名は禅林寺)は、橘の豊日天皇の皇子、麻呂子親王の願いによる建立であります。金堂には弥勒を祀っています。当麻寺と言うようになったのは、天武天皇が大友皇子の乱によって吉野の宮を出て、美濃国へ逃げ去り、野上の不破の宮に居られた時、宮侍で従三位の当麻国見真人は命がけで忠節を守り、大友皇子の首を捧げて天皇に献じました。その功績により官位を賜り、大和国清御原郡に遷都された後の白鳳九年二月十五日に、禅林寺をし造られたのです。この地は役の行者の所で、その本尊は手のひら一つ半位の小さな孔雀明王でしたが、この弥勒仏の胎内に籠められています。また不動尊もあります。

そもそも、極楽の変相仏の事。

縁起が有ると言います。麻呂子親王と夫人は、善心で疑うことがなく、信心は無二で、ここに吉土を請け、その中に精舎を建て、金堂には弥勒三尊が満月の光明でその姿を表し、西堂には極楽九品宝樹の変相を織り成し、夫人は、どうすればこの砌で浄土に行けるのだろうと常に願い、この に衆生を集め、往生の縁になってくださいといいました。

そうすると、去る天平宝字七年六月二十三日の夜、が現れ、蓮の糸で曼荼羅を織りました。化人は夫人に与え、           。

もっとも、この縁起では時代と年号が合わない。

かの寺僧が言うには、織り仏の事はたしかに日記にはありません。ただ、この曼荼羅の下の縁が壊れた時、天平宝字七年という年号が確かに織り付けられていました。その頃でしょうか、ヨコハギの大納言という人がいて、その娘が朝夕に極楽を願い、曼荼羅を映さんと願いを起こし、思い過ごしているところ、ひとりの化人が現れて、一夜の間に織って、どこに去ったか分らないと言う。この大納言の娘は、一生の間この仏に向かって、絶えず信心を行い、極楽に往生したと言い伝わっています。この仏の上軸には、一丈余りの節の無い竹を用いています。

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