聖徳太子と黒駒


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叡福寺所蔵の『聖徳太子絵伝』には、太子の傍らに黒い馬が数場面描かれています。この黒い馬は、太子の愛馬黒駒と呼ばれています。また、西方院の南にある共同墓地には、黒駒のお墓と言い伝わる墓石があります。そこで、叡福寺蔵の絵伝の各場面を使って、「太子と黒駒」のお話しを紹介してみたいと思います。

西方院の南側の共同墓地に、こんな墓石があります。近所の人々は、これは聖徳太子の愛馬、黒駒のお墓だと言い伝えられてきました。
これは、その黒駒のお話しです。

太子と黒駒との出合は、推古天皇六年、太子二十七歳の事です。
太子が良馬を求めると、諸国から数百頭の馬が集められました。その中の一頭、秦河勝が甲斐国から贈られた、足の部分だけが白い黒駒を、太子は「これは神馬である」と見抜き、愛馬とすることに決めました。
太子のお付きの者達は、こんな優れた馬を飼育出来るのはこの国にはいないと、百済から来た舎人の調子麿が黒駒の世話をしました。

その年の秋、太子が試しに黒駒に乗ると、ふわりと浮き上がり、馬を引く調子麿とともに雲に乗ったが如くに空に駆け上がり、東へ飛んで行きました。
そして太子は各地を見て回り、富士山の頂上に辿り着きました。ですから、太子は、富士山に初めて登った方と言われています。

さて、富士山の頂に立った太子は、自分の墓所とすべき場所を探して四方を眺めると、河内国の方に五色の光が立ち上がるのを見て、そここそが我が墓所とすべしと見に行きました。それが、ここ磯長の五字ケ峰だったのです。
黒駒は富士山から河内国に飛び、まず降り立った所が駒ヶ谷(今の羽曳野市)で、そこから五字ケ峰へ向かい、太子はそこに墓所を造ることにしました。

飛鳥に戻った太子は、すっかり黒駒を気に入りました。太子は斑鳩へ引っ越されたので、遠い飛鳥まで、毎日黒駒に乗って出仕しました。
そんな太子と黒駒には、こんなエピソードが伝えられています。ある日、黒駒は、いつもなら宮中の前で太子が降りるために立ち止まるのですが、この日は、太子を乗せたまま宮中に入ってしまいました。この失敗を悔いてか、斑鳩へ戻った黒駒は、草も喰まず、水も飲まず、すっかり元気を失ってしまいました。それを知った太子は、「草を食べ、水を飲むように」と声を掛けると、目を開き、草を喰み、水を飲んで、元のように元気になったと言います。

また、こんな話もあります。太子が、磯長に造っている自分の墓所を視察した帰り、片岡山の麓で黒駒が立ち止まり動こうとしませんでした。そこには飢えた老人が行き倒れていたのでした。
馬から降りた太子は、自分の服を脱いで掛けてやり、歌を贈り、埋葬してあげました。後日、太子が様子を見に行かせると、埋葬されたはずの老人の遺体はなく、太子の服がきちんと折り畳まれていたと言います。そして太子はその服をまた着られたと言います。人々は、「聖人は聖人を知るのだなあ」と語り合ったそうです。

さて、月日は流れ、推古天皇二十九年の二月、太子五十歳の時、太子と妃の膳部郎女は病に倒れ、薨去されました。人々は、「父母を失ったようなものだ」「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。」と、悲しみました。
そして、太子の愛馬黒駒も、悲しそうにいななき、水も飲まず、草も喰まなくなったと言います。

太子と妃は、その月に、磯長の陵に葬られました。斑鳩から磯長までの長い道のり、沢山の人々が石垣のように連なって太子を見送ったといいます。そして、黒駒も、太子が使っていた鞍を背に乗せてもらうと、棺を乗せた輿に従い磯長までついて行き、棺が埋葬され隊道が塞がれるのを見届けると、大きくひとついなないて、一躍して倒れたと言います。
聖徳太子の伝記をまとめた『聖徳太子伝暦』には、黒駒の屍は持ち帰って、中宮寺の南に埋められたとされています。しかし、ここ磯長では、黒駒もここで眠っていると語り継がれて来たのでした。

※絵は、太子町立竹内街道歴史資料館刊『太子町に息づく聖徳太子』より引用
※文は、宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』(講談社学術文庫)、藤巻一保『厩戸皇子読本』(原書房)、杉本好伸『聖徳太子伝』(国書刊行会)、太子町立竹内街道歴史資料館刊『太子町に息づく聖徳太子』を参考にまとめました。

コメント

“聖徳太子と黒駒” への2件のフィードバック

  1. 片本憲一のアバター
    片本憲一

    ひで丸さん、詳しい黒駒伝説ありがとう😆💕✨ございます。この話も紙芝居になりますね。

    1. ひで丸のアバター
      ひで丸

      片元さん、コメントありがとうございます。
      お墓の写真を絵にして、絵伝の各場面を模写すれば、すぐに出来そうですね。

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