西方院縁起の三尼公


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先日、散歩で立ち寄った西方院のお話です。
西方院は、聖徳太子御廟のある叡福寺と、道路を挟んで向かい側の丘の上にあります。

まず、道路の向かい側に隔夜堂っていうお堂があります。その前に大きな石碑が立っていて、聖徳太子御乳母三尼公御廟所西方院とあります。西方院は聖徳太子の三人の乳母たちのお墓があるお寺ということですね。

隔夜堂の右側の小道に入ると、小さな石の太鼓橋と、石畳の坂が続いています。ここを上がり詰めると、右側に西方院があります。山門を見ると南向山西方院とあります。その山門の右手に西方院縁起って解説板が立っています。写真では分かり辛いでしょうから、文字起こししてみました。

西方院縁起
抑も當院の濫觴(らんしょう)は 往昔欽明の御宇(ぎょう) 佛法渡来し 聖徳太子 治世安穏萬民豊樂(ほうぎょう)の誓願によりて弘通(ぐつう)せしかは 和国の教主とあがめ奉る 干茲(うじ)善信・禅蔵・恵善の三尼公は日本僧尼得度の最初にして 蘇我大臣の帰依浅からず 皇太子の御乳母(めのと)として仕え奉り御養育に身を捧げれば 太子深く其勤労を嘉し玉ひ かねて磯長の霊地は 御父用明天皇御母君穴穂部間人皇后 御妃宮諸共に御身神鎮まります處と撰み玉ひて 三尼公の為めに草堂御建立あって 沈水香木を以て 本尊阿弥陀如来像を作り 御自像と三尼公の像をあわせ安置し 報恩の志をのこし 永く末世結縁なさしめ玉ふそありかたき
 其後 幾多の変遷ありと雖も 直ちに旧観に復し 御本尊の霊験 弥(いよいよ)新なれば参詣踵(きびす)を接し 香火絶ゆる間(いとま)なし まことや 谷を隔てヽ霞たなびく御廟に向ひ 颯々たる松風の響来 さながら浄土の荘厳を想ふへし 又た苔蒸す三尼公の卒塔婆に隣れば 千歳の古へを偲ふ便りとなる
 志かあれば 一度 登院尊像に額(ぬか)つき奉り 合掌礼拝する人は 現当二世の利益限りある可らす況や 朝暮信心念佛の同行(どうぎょう)に於ておや

山門横解説板『西方院縁起』より

ちょっと難しい言葉もありますが、欽明天皇の時代に仏教が渡来し、聖徳太子はこれを広められ、日本の教主と敬われた。善信・禅蔵・恵善の三人の尼は、日本で最初に出家した者で、蘇我大臣も深く帰依し、皇太子の乳母として仕えたので、太子はその労をねぎらい、三人の尼の為めに草堂を建て、本尊の阿弥陀如来像を作り 自身の像と三人の像をあわせて安置した。
その後紆余曲折あったが、直ちに再興され、絶えず引き継がれて来たってことでしょうか。

更に続きの文がいいですね。「谷を隔てヽ霞たなびく御廟に向ひ 颯々たる松風の響来 さながら浄土の荘厳を想ふへし 又た苔蒸す三尼公の卒塔婆に隣れば 千歳の古へを偲ふ便りとなる」ですか。
まさに、こちら側から観る叡福寺と御廟がある五字ヶ峰は荘厳ですね。そして、お寺を左手に回ると、三人のお墓と言う三基の塔が収まっているお堂があり、その塔は長い時を感じさせてくれますね。

ところで、この解説板に「善信・禅蔵・恵善の三尼公は日本僧尼得度の最初にして」とあります。そうなんです、日本で最初に出家した僧侶は、三人の少女だったといいます。それは、『日本書紀』に載っている話です。でも、『日本書紀』の記述と、ちょ~っと違うような気もする😅。

もうひとつ、西方院のWEBサイトにはこのようにも紹介されています。

聖徳太子御侍女三尼公御廟所西方院は、常行念仏最古の道場でお念仏の根源の地であります。
即ち、推古天皇の30年(西暦622年)に聖徳太子御薨去のあと、月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)三姫は剃髪され、その名も善信・禅蔵・恵善と称されて、太子御廟の前に一宇を建立して、太子の御遺髪を納め、太子御作の阿弥陀如来尊像を安置して、ひたすら弥陀の西方浄土を欣求されたとつたえられております。

西方院のWEBサイトより

なになに、日本で最初に出家した善信・禅蔵・恵善は、月益・日益・玉照といい、それぞれ、蘇我馬子の娘・小野妹子の娘・物部守屋の娘とな。興味が膨らんでいきますね🤔。

さてはて、日本で最初に出家したという三人の少女の、『日本書紀』にある記述、そして西方院縁起やWEBサイトにある記述など、順に紹介してみたいと思います。

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