日本で最初に出家した三人の少女の話


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太子町の西方院では、聖徳太子の乳母であり、蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘と伝承された日本で最初に出家したという三人。『日本書紀』では、どう書かれているかまず紹介してみたいと思います。

仏教の公伝
まずは、日本に仏教が伝わったお話しから紹介します。日本に仏教が伝わったお話しは、欽明天皇の13年(538年)の項に出てきます。百済の聖名王から「この教は、諸法の中でも最も優れ、天竺(てんじく)から三韓(みつのからくに)に至るまで、教えに従い敬っています」と、仏像や経典など贈られたことが書かれています。もちろん当時は、中国大陸や朝鮮半島から多くの人が日本列島に渡ってきていましたので、仏教を信仰していた人や僧もすでに来ていたでしょうから、これを「仏教の伝来」と言わず「仏教の公伝」と言うそうです。

このように百済王から紹介された仏教ですが、日本で広がっていくには紆余曲折があったようです。

仏像を贈られた天皇は群臣に、「これを祀るべきかどうか」と尋ねました。蘇我稲目は「西の諸国は皆礼拝しています。日本だけが背くべきでしょうか」と言うと、物部尾興や中臣鎌子は「王は百八十神をお祀りされるのが仕事。外国の神を拝めば、この国の神の怒りを受けるでしょう」と言いました。そこで天皇は、試しに稲目に礼拝させてみることにしました。稲目はよろこび向原の家を寺にし、仏像を安置しました。

しかしその後、国に病がはやり若死にする人が多く続きました。物部尾興と中臣鎌子は、「あの時私達の意見を用いられなかったためにこの病死を招いています。早く仏像を投げ捨てて、福を願うべきです」と天皇に言いました。天皇はそのようにしろと言い、役人は仏像を難波の堀江に流し捨て、寺に火をつけ焼いてしまいました。

日本で最初に出家した三人の少女
それから46年後の敏達天皇の13年(584年)の時。蘇我稲目の子馬子は、百済よりもたらされた仏像を貰い受けました。馬子は司馬逹等(しめたつと)と池辺氷田(いけべのひた)に仏教の修行者を探させ、播磨で暮らしていた高麗人の還俗僧の恵便を見つけ、仏法の師としました。

そして、司馬達等の娘の嶋を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)と呼びました。年齢は十一歳でした。善信尼の弟子二人も出家させ、ひとりは禅蔵尼(ぜんぞうのあま)、もうひとりは恵善尼(えぜんのあま)といったそうです。馬子は三人の尼をあがめ尊んだそうです。日本書紀には、「仏法の広まりはここから始まった」と書き記しています。

迫害と困難を乗り越えて
その翌年、ふたたび疫病がはやり死ぬ者が多く出ると、物部守屋と中臣勝海は天皇に「疫病が流行るのは、蘇我氏が仏法を広めたからです」といい、天皇は「早速仏法をやめよ」といいました。守屋は馬子の仏殿や仏像を焼き払い、善信尼らを連れて来るように遣いを出しました。馬子は命令に逆らえず、泣き叫びながら三人の尼を引き渡しました。尼達はたちまち法衣を奪われ、海石榴市(つばきち 奈良県桜井市を流れる大和川の辺り)で鞭打ちの刑を受けました。

しかしその後疱瘡が流行り、人びとは「これは仏像を焼いた罪だろう」とうわさするようになりました。今度は馬子が天皇に、「私の病は仏の力なくしては治らないでしょう」というと、天皇は「お前ひとりで仏法を行い、他人にさせてはならない」といい、三人の尼を返しました。

馬子の元に戻された三人の尼は二年後、「出家の途は、受戒することが根本です。百済へ行って受戒の法を学ばせて下さい」と百済への留学を馬子に願いました。当時すでに中国大陸や朝鮮半島との行き来は頻繁に行われていたようですが、危険はとても大きかった時代だといえます。そんな危険も覚悟の願いだったのでしょう。その願いは翌年叶うことになりました。

三人が百済へ渡る直前、蘇我馬子は物部守屋と戦をすることとなり、厩戸王子(聖徳太子)も加わる蘇我側が勝ちました。これにより、日本でも仏教を積極的に取り入れていくようになりました。

三人の尼は百済へ渡り、二年後(590年)帰国しました。そして、桜井寺に住み仏教の隆興に努めたそうです。この年は11人の女性が出家したそうです。この時、男性で出家したのは1人だけだったようですが、男性の出家者もその後増えていったのでしょう。推古天皇が625年に調べさせたところ、僧は837人で、尼は579人いたそうです。

以上が、『日本書紀』に書かれている、日本で最初に出家した三人の少女のお話です。西方院の縁起と違うところもありますね。西方院の縁起では、善信尼は蘇我馬子の娘となっていますが、『日本書紀』では司馬達等の娘ですね。敏達天皇13年に11歳で出家したとあるので、敏達天皇元年に誕生した聖徳太子の乳母を務めるにはちと無理がある(笑)。どちらが正しいかなんてのは野暮なことでして、『日本書紀』は『日本書紀』として、西方院縁起は西方院縁起として、どちらも大切にしたいと思います。

ともあれ、その後仏教は、政治の土台となり、やがては庶民の暮らしの隅々にまで根付いていくことになったのですが、その始まりには、幾多の迫害や困難を乗り越えて、仏法を学び信仰を広げていった三人の女性がいたことは知っておきたいですね。

参考文献
『日本書紀(下)全現代語訳』宇治谷孟 講談社学術文庫
『「お坊さん」の日本史』松尾剛次 生活人新書

桜井市を流れる大和川。海石榴市はこの辺りにあった。

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