百人の美女から選んだ三姫


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日本では、江戸期に入ると庶民も参拝や巡礼などと旅をするようになり、〇〇図会と言ったガイド本のようなものも刊行されていきます。

太子町に関わるものでは『河内名所図会』(享和元年 1801年)と『西国三十三所名所図会』(嘉永6年 1853年)があるが、西方院の記述はほぼ同じなので、『河内名所図会』から紹介してみます。

西方尼院 上太子叡福寺ノ南上段の地にあり。浄土宗。女僧寺僧す。
本尊阿弥陀仏 聖徳王の御作。長(みたけ)三尺五寸許、左の方、太子二歳御影、右の方、善導円空大師の二影を安し、又、月益、日益、玉照姫の三影を安置す。当院、此三婦剃髪して草創ありし所也。年久しく荒廃しけるに、寛永年中、蓮誉寿性尼僧(れんよじゅしょうにそう)、中興して、今の如く再建す。
(中略)
三姫古墳 西方院南の方塀の外にあり。月益、日益、玉照姫の古墳也。

〔太子伝〕云、
皇太子御出誕の時百官ことごとく参りて、桑の弓蓬(よもぎ)の矢をもつて、天地四方を射はじめて、金輪聖王天長地久玉体安穏宝祚延長と祝ひ奉り給へり。御産湯の後は、時の敏達帝、かたじけなくも白綾をひらき、とりあげ奉り給ふ。次第次第に近従の人々抱き奉り給ひけり。太子の御身より異香薫じければ、抱き奉る人々の衣装にうつりて、数日さらに消ずといへり。容顔美麗の女を撰んて御めのとゝすべしとて、百人の美人の中より三人えらひて出し、天女玉女の如く成れば、光の徳により、其名を月益姫、日益姫、玉照姫とて、太子の御めのとに定給ふ。月益姫と申は今年十七歳、蘇我大臣のむすめなり。日益姫は生年十八歳にて、妹子大臣の姫なり、玉照姫は十九歳にて、守屋大臣の姫なり。みな、女御、中宮にもそなはるべき容色なりといへども、あるひはこはれてまいるもあり、或はのぞみてまいるもあり。太子を膝のうえにもり育、ねんねんころゝの子守歌は、此時よりはじまるとぞ聞えし。

『河内名所図会』より

ここに三姫が、蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘だと出てきますね。百人の美人の中から三人選んだら、馬子、妹子、守屋の娘だったと。よく出来た話ですね(笑)。

冒頭に、〔太子伝〕による話とあるのですが、『太子伝』という書は私はまだ知りません。太子の伝記類もろもろを指してるのかも知れませんが、太子町立竹内街道歴史資料館の『太子町に息づく聖徳太子』(平成十四年)という図録には、三尼公像の解説として

中世の『聖徳太子伝記』(醍醐寺本)は、聖徳太子誕生時に自ら光を放つ太子を養育するため「容顔美麗自信放火女ヲ撰六人可為左右乳母トテ百人美女被召」としていますが、条件に合ったのは「月益姫・日益姫・玉照姫」の三人だけと記されています。

『太子町に息づく聖徳太子』(太子町立竹内街道歴史資料館)

とあるので、この『聖徳太子伝記』のことを言ってるのかもしれません。

いずれにしても、平安時代前期の『聖徳太子伝略』では、三人の乳母=いずれも臣連(おみむらじ)の女(むすめ)とだけあったのが、中世には、その三人は蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘で百人の美女から選んだ三人だという話になっていたということですね。

『西国三十三所名所図会』の挿絵より

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