当麻曼荼羅と中将姫


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

太子町にある西方院の縁起から、日本で最初に出家した三人の女性の話を紹介したので、今度は當麻寺の中将姫のお話を紹介してみたいと思います。

西方院縁起で紹介したように、日本で最初に出家したのは女性で、聖武天皇の時代には全国に国分寺と国分尼寺を建てたように、最初は尼僧も活躍していました。

しかし、律令制が整っていく中で、正式な僧侶になれるのは男性だけになり、東大寺や比叡山や高野山といった名だたる寺院はみな女人禁制を敷き、女性は穢れた存在で、仏に成れる器ではないという考えになっていったそうです。

また、この頃の日本の仏教は国家のためにあり、僧侶は民衆への布教は禁じられていましたが、一方では、民衆の中で活動する僧もあらわれ、人々は、極楽浄土に往生し成仏することを願うようになっていったそうです。

そんな中、誰もが極楽浄土に往生できる、女性も成仏できる、という教えの大きな力となったのが、当麻曼荼羅と中将姫物語でした。

當麻寺は、二上山の奈良側の麓、今の葛城市にあります。古代に建てられ唯一残る東西両塔や、日本最古の梵鐘、金堂の弥勒仏坐像等々と国宝だらけなんですが、當麻寺といえば何と言っても当麻曼荼羅。

当麻曼荼羅は、浄土の姿を描いた縦横四メートルから成る綴織の変相図です。真ん中に大きく極楽浄土の姿を写し、左端にはインドの韋提希夫人の苦難と釈迦の教えが、右端には極楽浄土を観想する十三の方法、下段には生前の行いによる九つの往生の様が描かれ、この曼荼羅を一目拝もうと各地から参拝に訪れ、昭和30年ごろまでは曼荼羅の前で絵解きも行われていたそうです。

元の曼荼羅(根本曼荼羅)は痛みとともに建保5年(1217年)に「建保曼荼羅」、文亀2年(1502年)に「文亀曼荼羅」(重要文化財)、貞享2年(1685年)に「貞享曼荼羅」と複製され、いま納められている曼荼羅は四代目ですが、最初に納められていた根本曼荼羅、納められている厨子、本堂(曼荼羅堂)も国宝です。

本堂の厨子に納まる当麻曼荼羅。奈良国立博物館『當麻寺』図録より

また、この当麻曼荼羅の縁起から生まれたのが中将姫物語です。よく、中将姫が当麻曼荼羅を一夜で織り上げたと言われたりしますが、正確には、浄土の姿を一目見たいと願う姫の前に、ひとりの化女が現れ、曼荼羅を一夜で織り上げ与え、姫は日々この前で行を行い、浄土に迎えられたというお話ですね。

この縁起譚は、その後、様々な創作を加えて語られ、絵巻や絵本に描かれたり、能や浄瑠璃や歌舞伎の演目として多くの庶民に愛されていったそうです。

中将姫像と本堂(曼荼羅堂)

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です