聖徳太子御廟に合葬されていると言われる善部郎女(かしわでのいらつめ)には、いつからか、太子との出会いを物語る芹摘姫説話が語られるようになったそうです。そして、その物語の出会いの場面が聖徳太子絵伝に描かれるようになったみたいですが、絵伝によっては、複数の場面を描いているものもあるようで、一番多いのは本誓寺本『聖徳太子絵伝』と、本證寺本『善光寺如来絵伝』の十二場面だそうです。
今回は、本證寺本『善光寺如来絵伝』に描かれた各場面を引用して、芹摘姫説話を紹介したいと思います。
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昔、大和の倉橋山の北の麓に膳(かしわで)の里という村があり、老いた夫婦が暮らしていました。
八月十五日の満月の日、ふたりはお月様を眺めて歌を詠んでいると、そのお月様が音羽山に落ちたのでした。これに驚いたお爺さんは、これは天下の一大事と山へ調べに行ってみました。
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すると、山の奥深くに、三歳ほどの女の子が独り立っていました。「こんな山奥で独り生きていくことは出来ないだろう」と連れて帰ると、お婆さんは「神仏のお計らいでしょう」と、喜んで育てることにしました。
すると、その女の子は変化の人か、三年を経たずに大人になったのでした。
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ところが、お爺さんとお婆さんは、もとより家は貧しく、着る服も、食べる物にも困る暮らしだったので、三年の間にすっかり老い衰え、ついには明日をも知れぬ身になりました。
そこで娘は、明日は三輪の川の辺に出て、芹を摘み、最後の食事を取ってもらうことにしました。
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さて、聖徳太子27歳の春、3月。太子は三輪山の三輪明神にお参りに出掛けていました。
三輪明神は、伊勢神宮の元であり、即ち、聖徳太子の氏神でありました。
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太子は、推古天皇の摂政を務るお方でしたので、花の輿に乗り、多くの従者がお供に付き、馬の蹄は雷電のごとく響き、空を飛ぶ鳥も山野の獣も驚く程でした。
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さて、太子が三輪の川を渡る時、二人の娘が岸辺で芹を摘んでいました。ひとりは太子に気づいて見送るのですが、もう一人の娘は顔も上げず、涙を流しながら芹を摘み続けていました。お供の者が、「太子様に無礼だぞ」と声を掛けるも、聞こえないのか、芹を摘み続けていたのでした。
それを見た太子は、「なにか事情があるのでしょう。少し聞いてみたい」と、娘に来てもらい、話を交わされました。
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娘が話すには、「私は倉橋山に捨てられた赤子で、膳の里に住むお爺さんお婆さんに育てられましたが、家は貧しく、食べるものにも困り、明日をも知れません。近所に食べ物を乞いに回っても、もう貰えるものもついに無くなりました。それで、きょうは、最後の食事にと、三輪の川辺へ出て、芹を摘むことにしました。そうしたら、涙が止まらず、太子様がお通りになっていることにも気づきませんでした」と、語るのでした。
それを聞いた太子は、娘の気持ちに惚れ、妃に迎え入れたいと申し出、今夜、家に訪れることを伝えたのでした。
娘は、とても身分違いなので断りましたが、太子は、養父母への深き心を持つ者こそ、永遠の友としたいと、お伝えになったのでした。
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娘は、更に、「今夜来てもらうにも、我が家はとても貧しい有様です」と話すと、太子は、「私が座る御座には、俵の菰を用意してくれればよい」と答え、一旦お戻りになったのでした。
それを見送った娘は、急いで帰り、両親に話したが、「聖徳太子と言えば、天下の人。それは三輪の狐にでも騙されたのではないか」と信じてもらえませんでした。
隣家に菰のゴザを借りに行くと、皆は指を差して、物狂いにでもなったのだろうと笑うのでした。
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それでも、ようやくゴザを手に入れ、喜んだ娘でしたが、ふと池に映る自分の姿を見ると、痩せ細った髪の毛に悲しむのでした。
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しかして、その夜、太子は上下整え、本当に現れ、娘の家に入っていきました。それを見た村人たちは、それまで笑っていたのも忘れ、これは後世の一大事と、涙を流して手を合わせるのでした。
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太子は、娘が用意した御座に座り、歌を交わすなどして楽しんだ後、大勢で来ては迷惑だろうと山の向こうに待たせているお供に、用意していた物を持って来させました。
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そして、太子は、持ってきた十二単を娘に着せ、髪をすき、金の扇で三度仰ぐと、たちまち絶世の美女になったのでした。
そして、二人で、寝込む両親の前に行くと、太子と娘を見た両親は起き上がり、なんとこれは観音菩薩と勢至菩薩のようだと驚くと、太子は「そうかも知れませんね」と微笑むのでした。
※絵は、『真宗重宝聚英 第3巻 阿弥陀仏絵像 阿弥陀仏木像 善光寺如来絵伝』(同朋舎出版)より引用
※文は、『聖徳太子正法輪』と『聖徳太子内因曼荼羅』を参考にまとめました。
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