二上獄ブログ

  • 有田の雲雀山へ行ってきた

    當麻曼荼羅の縁起から生まれた中将姫物語。その姫が隠れ住んだと伝える場所が三ケ所あるのですが、その内のひとつ、和歌山県有田市糸我にある得生寺と雲雀山に行ってきました。

    得生寺は、以前二度行ったことがあるのですが、雲雀山の方はどこから登ればいいのか分からず、その時は断念したのですが、登山のSNSのYAMAPに登られた記録が上がっていたので、三度訪れてみました。

    三度来ました、得生寺。山号はズバリ、雲雀山なんですね。

    縁起があります。ここでは、姫を討てず匿った家臣の名は伊藤春時なんですね。

    正面が開山堂。姫と春時夫妻の像が祀られています。

    左に赤い桟橋があります。ここでは、當麻寺と同じく練り供養が行われているそうです。有吉佐和子の『有田川』に、その話が出てきますね。

    熊野古道を南へ行くと、登り口を示すしっかりした看板がありました。

    階段から、みかん畑のレールに沿って登っていきます。

    入り口にある山内の案内図です。

    狩りに来た父と偶然出会ったところだとか

    この上で毎日浄土教を書写したとか

    書いたものをここに収めたとか

    山頂、伊藤ヶ嶽。

    春時が姫を助けたところだとか。

    御本廟の石柱と、白山権現との看板がある。

    展望が利きます。

    南の方へ下っていきます。

    庵の跡と名号石を見落として、阿弥陀の井まで来ました。

    因みに、得生寺には『雲雀山縁起』ってのが伝わっていて、その中に「糸我十故」と、史跡の紹介があります。以前、ちょっと現代文にしてみましたので、添付しておきます。

    糸我の十故
    一、伊藤が獄 姫君のお命をお助けした所。雲雀山の北西にある。伊藤は春時の姓である。
    一、房の跡 雲雀山別所の谷にある。姫君を隠し住まされた跡で、当寺の往古の場所、いまは堂段といいます。
    一、経の崖 三年の間、書写したお経を納め置かれた所である。
    一、机の岩 浄土経を書写する机とした石である。
    一、阿弥陀の井 堂段にある。恵心僧都が千体仏を納めた所である。それより名付けられた。
    一、白山権現 春時入道のお墓である。春時は歯を患って亡くなった。故あって白山権現に祭った。歯を患う人がお願いすれば治る。勅筆の縁起には、「武士が亡くなり、庵の傍に石に包んで葬った」とある。一丈四方に石を積む所が山頂にあり、これがそれである。
    一、真砂寺 春時夫婦が剃髪をした所。今の仁平寺である。仁平の時に中興され真砂山仁平寺と改められる。往古、真砂寺だったころ、春時夫婦はこの寺で剃髪して得生、妙生と号した。縁起書などにある。今は大仏の霊像が多くある。
    一、中将の坪 真砂谷の口にある。姫君が真砂寺へ参う毎に、理由あって休まれた所である。田地の字に残っていて、こういう。
    一、灯畝の坪 松を明かりにして落穂を拾われた所である。これも田地の坪名に残っている。


  • 雪の北穂高岳に登頂!

    2022年5月、GW真っ最中の3、4、5日、憧れの雪の涸沢でテン泊し、北穂高岳に登頂できました。雪山の目標は幾つかあるのですが、涸沢でテン泊し奥穂や北穂に登るのもそのひとつでした。

    奥穂高岳は、まだちょっと不安が大きく、今回は涸沢岳にしとくか北穂高岳にするか思案しましたが、やはり北穂山荘のテラスからコーヒーを飲みながら槍ヶ岳を眺めたく、北穂高岳を目指すことにしました。

    初日は、あかんだな駐車場の開門時間に到着。始発バスに乗って上高地入り出来ました。以下、写真を交えての報告です。

    ついに来ました。吊り尾根が見えます。

    前夜雪が降ったようで、徳沢の芝地は銀世界でした。

    始発バスで上高地入りしたけれど、歩くのが遅いのでどんどん抜かされて行きます。遅いだけでなく、息苦しく、何度も立ち止まり、何度もリュックを下ろして涸沢のテン場に向かいました。

    道中、明日登る北穂沢が見えました。登ってる人の姿も見えます。武者震いして、意気を高めたいところですが、苦しくてそんな気は湧きませんでした。

    おお、ザイテンや涸沢槍も見えて来ました!

    ようやくテン場に到着です。

    なんとかスペースをGETし、設営です。

    テントも張り終え、涸沢ヒュッテのテラスでビールを飲みながら、明日登る北穂沢を眺めて過ごしました。

    二日目の朝です。モルゲンの時間に合わせて準備を済ませ外へ出てみると、もう大勢が登ってます。

    最初は、振り向くとテン場が見えるので、高度感を確かめながら登って行きます。

    この辺りが一番の核心だった。写真では分かりづらいが、ちょい急登で、そのあとちょっといやらしいトラバース。(下山時、右側のM字の岩と、左に少し離れてある岩の間を雪が雪崩て行き、その後、ひとり滑落した。)

    もう本当に何度も何度も立ち止まりながらでしたが、ようやく山頂に立ちました!

    登頂時は雲に隠れていた槍ヶ岳ですが、北穂山荘のテラスでコーヒーを飲んでいると、雲が取れました。

    さあ、慎重に下って行きますよなんだけど、この後、雪崩と滑落に遭遇した😖

    写真真ん中辺り、岩がM字になってるのがインゼルと言うらしいが、その横を下山中に、後ろから「なだれ〜!」って大きな声があり、振り向くと、波飛沫のように踊りながら滑り落ちてくるのが見えた。とっさに、大丈夫とは思ったけど、少し移動し、傍を流れ落ちていくのを眺め、止まるのを確認した。

    ほっとしたのも束の間、こんどは一人滑落して滑り落ちてきた。一度二度大きく回転したが、無事止まり、体も大丈夫だったみたいで、良かった。

    後で知ったが、私が北穂山荘で休憩していた時にも、ルート上で雪崩があったみたいだ。

    ふう、テン場が見えて来ました。向こう斜面も雪崩跡だらけです。

    カレー食べて、ビール飲んで、涸沢カールを眺めます。来年は、涸沢岳か奥穂高岳目指したいですね。

    三日目の朝です。

    ばいばい、涸沢。来年も来るね!

    ばいばい、北穂沢と北穂高岳!

    と言う訳で、かなり情けない足取りでしたが、なんとか目標のひとつを達成できました。雪崩、滑落に遭遇し、雪山の危険を目の当たりしたのだけど、やっぱり雪山に登りたくなるんですよね。


  • 桜井市の相撲故地を歩いてきた

    『日本書紀』の垂仁天皇七年七月七日に記されている、当麻邑の当麻蹶速と出雲国の野見宿禰の勝負が相撲起源とされています。その野見宿禰の出身地と伝承される地が桜井市の長谷寺の近くにあります。また、その相撲が取られたいう伝承地が、巻向の東にある穴師という地に相撲神社としてあります。

    この二箇所はちょっと離れているのですが、ハイキングがてら、JR巻向駅から近鉄長谷寺駅まで歩いてきました。

    まずはJR巻向駅から相撲神社を目指します。②のマークのとこですね。「国技(相撲)発祥の地 カタケヤシ」と書かれていますね。

    国道にはよく目立つ看板が立っています。

    垂仁天皇の纒向珠城宮伝承地です。

    更に東へ行くと相撲神社があります。

    相撲神社は穴師というところにあるんですね。
    ところで、この解説板には、野見宿禰は相撲と埴輪の始祖とありますね。今回は相撲の始祖としての野見宿禰の故地を巡りますが、埴輪の始祖としての野見宿禰はまたいずれ紹介したいと思います。

    相撲神社がありました。

    力士像があります。

    土俵もあります。

    社殿です。

    解説板がありました。

    この碑の絵は、元は国立競技場の壁に飾られ、現在は新国立競技場の東側ゲートに移されている、「勝者之聖」の縮小レプリカだとか。

    他にも古い碑が沢山ありました。

    その後、山辺の道を南下し、大和川から長谷寺の方へ行くと、途中に出雲という集落があります。そこにある十二柱神社に立ち寄ります。

    社殿です。

    ここの狛犬は、

    力士たちが支えています。

    参道の横に顕彰碑があります。

    「大和国出雲村相撲開祖野見宿禰顕彰碑」と彫られています。

    碑の裏には、野見宿禰は出雲国から召されたとあるが、大和の出雲村と考えた方がいいと新設を解説。

    また、菅原道真の祖とも書かれていますね。この話もまたいずれ。

    これが野見宿禰の五輪塔なのですね。

    この五輪塔は、元は太田の宿禰塚にあったのを、明治16年頃にここに移されたそうです。

    昭和40年に建てられた『相撲開祖野見宿禰五輪塔由来』

    書き写しを最後に貼っておきます。

    最後に五輪塔があった宿禰塚跡に来ました。ちょっと分かりづらい場所ですが、この看板からアパートの前を抜けていきます。

    畑に出ると、碑が建っています。

    野見宿禰塚跡に碑です。

    平成十二年に顕彰会が建てたそうです。


    この日回ったコース図です。

    野見宿禰五輪塔由来の書き写しです

    【相撲開祖野見宿禰五輪塔由来】
    垂仁天皇御代、天皇は野見宿禰と当麻蹶速を三輪山西麓の皇居纒向珠城宮に召して相撲をとらせ、宿禰が蹶速を倒した物語は「日本書紀」に記載されてある。
    その相撲跡カタヤケシは現桜井市大字穴師にあり、相撲起源の伝承として広く世に知られている。
    当出雲地区には、古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していたが、明治十六年農地整理により塚は形を失い、墳上の塔をここに移し祀った。
    物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されるが、出雲村の宿禰がこの地より珠城宮に召された伝承は、神話伝説の構成と大和王朝の成立経過、万葉集の歴史地理の調査、研究から考察して史実の反映を示す重要な存在であることは明らかである。
    よってここに日本建国の功労者、相撲開祖及び土師氏の祖野見宿禰の五輪塔由来を記し、その旧跡とこの文化遺産を長く世に伝えたいと思う。
    昭和四十年十二月


  • 念願の西穂奥穂縦走達成

    2021年9月24日、念願の西穂奥穂の縦走を果たすことが出来ました。 本当は、西穂から奥穂へ縦走したかったのですが、23日が強風予報だったので、22日に上高地から涸沢に入り、23日は穂高岳山荘に登るだけ、そして24日に穂高岳山荘から西穂山荘まで逆打ちで縦走し、そのままロープウェイで下山するという計画にしました。

    【一日目】
    地震後と雨予報からか、涸沢まではとても静かな雰囲気の中歩けました。でも、夕方からの雨がすごく、テント内は結露で水たまりだらけ😣、おまけにマットがパンクで😖、過去最悪のテン泊でした😓。

    【二日目】
    翌朝はお楽しみのモルゲン、雨も上がり快晴だったんですが、奥穂から北穂にかけての稜線上にだけガスが残ってて、ちょっと残念でした。この日は、穂高岳山荘へ3時間ほどで上がるだけなので、濡れたテントやシュラフ、シュラフカバーなど、じっくり乾かしながら撤収。そうしてると、稜線上のガスも引け、綺麗な秋景色の涸沢カールになりました。

    テントを撤収したあとは、涸沢小屋の方でコーヒーを頂き、それから出発。ザイテンの取付きまでは快晴が続き、写真を撮りながら登り、ザイテングラード取付きあたりからまたガスが掛かり始めた中を登って行きました。

    穂高岳山荘到着後はガスって肌寒いので、小屋で担々麺を頂き、テントを張った後は外に出ることもなく過ごしました。

    【三日目】
    いよいよ三日目は縦走日😤 奥穂山頂で日の出を迎え、明るくなってから馬ノ背へ進めるように、4時40分に出発した。頭上にオリオンが輝いていた。 ヘッデンを点けての奥穂高岳までの登りは、さほど難しくなかった。道もよく見えた。そして、上り詰めた先、薄暗い中にジャンダルムがいた。奥穂高岳は一昨年にも来たが、その時はガスで見れなかった。いま、初めて目の当たりにして、いかにも衛兵の名の通り、いかつく、圧するような存在感だ。見るだけで身震いする。いまからあそこに行くのかと、息を飲み込む。

    しばらく見惚れていると、日の出だ。ご来光から右に目をやると富士が見える。ジャンダルムも朝日に照らされ、振り返ると槍ヶ岳も焼けている。山で日の出を迎えるのは何度かあるが、360度見渡せる頂で迎えるのは初めてだろう。 山頂では20分ほど過ごしてしまった。 思い出したように、「よし」と小さく声を発し、ジャンダルムへ向かった。

    最初の難関、馬の背は、無理せず四つん這いやまたがって進み、慎重に後ろ向きに足場を確認しながらクライムダウンすれば、難無かった。それよりも、ここから更に下り、結構な登り返しになることの方が嫌な気分だ。奥穂から西穂は下り基調で、累積登高は500mぐらいといい、そのほとんどが穂高岳山荘から奥穂高岳の登りなので、もうたいした登りはないと思っていたのに、ちょっと甘さを悟らされた感じだ。

    でもまあ、ロバの耳、ジャンダルムの基部を順調にトラバースし、西穂側に回り込んで登りに着き、奥穂からならジャンも案外あっけなく行けるんだなと思いながら、もう山頂部が見えた瞬間、足を乗せた岩が崩れた😱。

    とっさに「ラクーーーーー!」と叫び、音を立てて落ちていく様を見守る。幸い人はいなかったようだ😰。でも、問題はその次で、次に足を置く場所が見当たらない😰。恐る恐る置いてみると、ぐらつく。手の置き場も色々探すが、ちょっとにっちもさっちもいかない状態になってしまった😖。とりあえず、いま乗っかってる足場は大丈夫だなと自分に言い聞かせ、少しづつ足場、手掛かりを探して、ようやく登りつめた😩。

    上には三人の登山者がいたので、写真を撮ってもらえた。行く前には、ジャンダルムに着いたらどんなポーズの写真を撮ってもらおうかとか色々考えていたんだけど、そんなことはすっかり飛んでしまってて、兎に角二三枚撮ってもらい、天使をまじまじと見ることも忘れてしまったのが、ちょっと心残りだね。

    もっとじっくり過ごせれば良かったんだけど、ここでまた時間を潰し過ぎるといけないので、早々に降りていくと、何やら上の方でゴ、ゴ、ゴ、と音がする😧。落石?と思い、とっさに身を壁に張り付けて待ち受けていると、頭上とは言わないが、2、3m先を落ちていった😱。

    これが地震の影響によるものか分からないが、さっきの私の落石といい、他でも大きな落石の音があった。それから、足を置こうとした岩がぐらついたり、手につかもうとした岩が剝がれそうな感じだったり、まったく信用できない、安心できないところばかり😓。去年の大キレットや、一昨年行った奥穂北穂とはもう全然異質のコースなんだと感じながら進んで行きました。

    しかし、そんな危険よりもっと不安なのが私の脚力、体力😧。一応コースタイムに1.2倍し、休憩時間も加算し、ロープウェイの最終より1時間前に着くタイムテーブルを組んでいた。しかし、時間がどんどんオーバーしていく。ゆっくり休憩する余裕が無くなっていく。赤岩岳の頃にはいよいよ30分オーバー。つまり、あと30分オーバーしてしまったら最終に乗り遅れる。 急ぎたいのは山々なんだけど、無理に急ぐと危ないし、そもそも息苦しくて足が出ない。

    もう、うんざりする登り返しを何度も何度も越え、なんとか西穂まで到着。ここへは二度来ているので、核心部は終わった~って思いと、更に独標までは気を抜かないように気を抜かないようにと言い聞かせながら、ここでも休憩せず先を急ぎましたよ。

    で、ようやく独標の急斜面を登り、次のプチ岩稜も越え、広い稜線に出たところでようやく一息付けました。で、そっからまた猛ダッシュで駆け下り、なんと、一本前のロープウェイに間に合いました。以上、まあ、長々と書きましたが、要約すれば、 私にとって西穂奥穂は、 『怖すぎ、しんどすぎ』 これに尽きました😅。


  • 岳のぼり

    二上山では、昔、例年3月23日に奈良側の村人たちが「岳のぼり」といって、山頂でごちそうを食べて新緑を楽しむ行事があったそうです。

    『西国三十三所名所図会』(嘉永6年 1853)には、「例年三月二十三日、薩州より修験者きたり、当麻寺の僧侶と倶(とも)に護摩供を修法す。是此近村より請じて、五穀成就の祈りをなすと聞ゆ。此日は山上にて酒の上温、肴の煎売、或は覗き、からくり、放下師なんど出て賑わし隣村の老若男女険阻をこととせず群集す。此旬の法会といふべし」と、その様子を伝えています。これには、大阪側の山田村(現太子町)からも参加したそうです。

    現在は、毎年4月23日に、二上山美化促進協議会(葛城市・香芝市、太子町)主催の清掃登山のイベントが行われています。